ぶんぶーん日記

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「意味付け」に人間性が現れる

id:coconots9さんに薦められて、名著「夜と霧」を読んでみた。


夜と霧 新版

夜と霧 新版


第二次世界大戦時に、ナチスドイツからユダヤ人がもの凄い迫害を受けていたのは改めて説明するまでもない歴史。本書は心理学者のヴィクトール・フランクル氏の強制収容所体験に基づいた話なのだが、フランクル氏が置かれた状況はもう地獄としか言い様がない。

たとえば、近く被収容者が移送される、一定数の被収容者が別の収容所に移されるらしい、と聞いたとする。わたしたちは、それはまやかしだ、と考える。なぜなら当然、その移送とは「ガス室送り」だと(中略)
一人ひとりが、自分と自分の親しい者たちが移送されないよう、移送リストから「はずしてくれるよう嘆願する」ことに、ぎりぎりの土壇場まで死にものぐるいになる。だれかが抹殺をまぬがれれば、だれかが身代わりになることははっきりしていた。この際、問題なのは数だけ、移送リストをみたす被収容者の数だけなのだ。

夜と霧 P.3-P.4より


上の文章を読んだ時に、何を言っているかすぐには飲み込めず、思わず読み返した。ちょっと前に進撃の巨人がめっちゃ流行ったが、あのレベルの出来事が祖父世代では起きていたということ。こんな事が人間の世で起きるのかと、戦後40-50年してから生まれた人間としては正直信じられない。歴史としては当然知っていたけど、細かいエピソードを読んで状況を想像すると、背筋が寒くなるどころではない。こんな家畜並の扱いをされたら生きる希望とか目標とか持てなくなって当然だと思う。


前半部では収容所の常軌を逸したエピソードを、これでもかこれでもかと浴びせられるのだが、読んでいるとふと思い出すタイミングがある。この著者、これ実体験したんだよなと。この地獄の様な日々を、よくこんなにつぶさに克明に文章に出来るなと。いくらフランクル氏が心理学者とはいえ、知的好奇心だけでは、ここまでの詳細な描写は出来ないはず。毎日のようにガス室送りや銃殺の危機に晒され、生き残る事だけで精一杯なのに何故こんなに覚えていられるのかと。何が彼をそうさせたのだろうかと気になって読み進めてしまった。

自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。

夜と霧 P.134より


この文章を読んだ時、フランクル氏は心理学者として「人類未曾有の出来事を記録して後世に伝えなければ!」という使命感を持っていたから、こんな状況でも生き残れたのかなと思っていた。しかし、感想を書いている今の段階では、本当はそうじゃないのかもしれないと思っている。


よくよく考えたら収容所に入れられた最初の段階から、使命感なんて持っているはずがない。理不尽で残酷な出来事の連続で、人間としての尊厳が当然のように蔑ろにされ、何回も心が折れそうになりながらも、「俺が受けているこの仕打ちやこの運命には何か意味がある」と信じ続けたからこそ、自分の使命を見出す境地にまで到達出来たのだと思う。明日死ぬかもしれないのに、目の前の苦しみに意味を見出そうとするって、主体性とか意志の強さの極みだと思う。


人類史上稀に見る異常事態の中でも、自分の使命を見出すことが出来るってとてつもない事だ。なんか自分を活かすも殺すも「使命が見つかるまで粘れるか」次第な気がする。夜と霧は、歳を取ってから読むとまた違った味わいが出てくる本ですね、きっと。