ぶんぶーん日記

渋谷のITベンチャーでエンジニアとか、営業とか、プロダクトマネージャーとか、経営企画とかやってます

イタイ人に対しても寛容になれたら、いい社会になる

ぼくは基本的に他者を否定しないし、叩かない。他人の行いで気分が悪くなる事も、むかつく事も当然ある。しかし、相手を排除する動きは絶対にしない。自分がその場を去れば済む場面であれば、自分が去る事を選択する。

仕事上で付き合いをしなくてはいけない事もある。そういう時も相手を拒絶はしない。とりあえず相手の価値観を理解する様に努力する。よほどめんどくさいクレーマーみたいな人に対しては、対応がおざなりになってしまうが、とりあえず拒絶はしない。

何でそういう風に自分が行動しているのか、上手く説明出来なかったが、うまいこと言語化されている記事を2つ発見した。


Yahoo!ニュース - [為末大学]【嫌いな人を叩いてはいけない理由】〜安藤美姫さん「3ショット」写真炎上について〜 (Japan In-depth)

ただ嫌いというだけで相手を叩くことが容認される社会では、嫉妬による攻撃も容認されるし、普通とは違うような才能を持った人間への攻撃も容認され る。そして最も大きな社会への害は、安藤さんへの実害ではなく、こういうひとつひとつの事例をみて子供たちが社会での振る舞いを学習してしまう事だろう。 そういう社会では天才が育ちにくく、結果として社会の損失だと私は考えていて、だから反対する。


「クリスマスと正月が同居する日本」に世界の宗教家が注目! 寛容の精神に見る、宗教の本質とは | ログミー[o_O]

確かに全ての宗教において、その教義に忠実である、守ること、それは非常に大事なことです。しかし世の中にはもっと大切なことがあります。

それは信じる宗教が違っていても、お互いを尊重し、そして仲良くするということです。日本では色々な宗教を信じている人がいますが、宗教が違うからといって、争いやもめごとといったことはほとんど起こりません。

しかしテレビでニュースを見ますと、世界を見渡しますと、ひとつの宗教を信じるあまり他の宗教の方と争ったり罵り合ったり、そういう場面が放映されます。しかし私はそれは本末転倒だと思います。

宗教の本質は盲目的にひとつのものを信じることではありません。世界にはたくさんの人がいて、それぞれ皆さん感謝の気持ちを持って、安心感を得て、そして自分の人生を全うする。その助けを提供するのがこの宗教の役割です。


人それぞれ信じている宗教も違うし、出身地も違うし、肌の色も違うし、身体の強さも違うし、メンタルのタフさも違うし、生まれてきた家庭環境も違うし、同じ家庭で育っても長男か次男かで性格が違うし、受けてきた教育も違うし、世の中は自分と違う人たちで溢れかえっている。「自分が信じているものに反しているから」という理由で、違う価値観の人たちを排除してしまったら、行き着く先には孤独しかないと思う。

世の中は因果応報だから、「自分がした事は周りにされても文句は言えない」がぼくの基本スタンス。「違う価値観の人たちを排除する」という行為を自分がしたら、誰かから排除されても文句は言えないと思ってる。当然だけど、周りから排除されたらすごい不愉快だし、自尊心がもの凄く傷付く。ぼくはそんな目に遭うのは絶対にイヤだから、誰かを排除する様な事はしない。

自分がしなくても、誰かが自分を排除してくる時もある。そういう時は、ぼくはおとなしくその場を去る様にしてる。見る人が見れば、どっちがイヤな奴かなんか一目瞭然だし、仮に全会一致で排除されたのだとしたら、そこは自分がいるべき場所じゃないというだけのこと。

手厚く面倒見てもらいたいとか、特別扱いしてもらいたいとか、周りからちやほやしてもらいたいとか、そんな事は求めてない。自分が素のままでいた時に、「そこにいること」だけを許してもらえれば十分。

正直僕だったら、未婚状態で子供がいて、恋人と子供と自分の3人で撮った写真をSNSにアップするとかは絶対にしない。何か恥ずかしいし。ラマダーンの時期に断食も絶対にしない。空腹に耐えられないし。日曜日に教会でお祈りも絶対にしない。めんどくさいし。だからと言って、そういう事してる人たちを非難はしない。別にぼくの人生に何の影響もないし、誰かを傷付けてるわけでもない。

ぼくにとって「イタイ人」に対しても、寛容である事はとても大事。誰かから見たらぼく自身が「イタイ人」である可能性もあるし、その度に叩かれてたら心折れちゃって、引きこもりになるわ。だから、自分が心身共に健やかに暮らすためには、寛容である事は基本中の基本。自分が寛容なら、周りも自分に対して寛容になってくれるし、それが連鎖したら、もう少し良い社会になる気がする。